Da pacem Domine 作曲/杉山浩一
21世紀に入って以降、人類は不安な時代を過ごしています。
この閉塞した空気は私の作曲にも多大な影響を与え、
東日本大震災の年にもやはり世相を反映した曲を作っています。
Da pacem Domineとは
「主よ、平和をお与えください」という意味のラテン語ですが、
今回はこの言葉と、エストニアの現代作曲家であるarvo pärtの同名の曲に
最初のインスピレーションを得て曲を作り始めました。
悲劇のある時、平穏に生きることのできない時、
祈るという行為がそこにあります。
今回、曲の題名こそキリスト教的ですが、
祈りは宗教の如何を問わず平穏を切望する行為です。
2年前ですが8月にはバンコクで、11月にはパリで同時多発テロが
起こりました。
私は偶然にもパリ同時多発テロの翌日スペインにいました。
市庁舎がトリコロールにライトアップされて追悼ムードでしたが、
それと同時にスペインでもかつて2004年に列車の同時多発テロ事件があったことからピリピリとした空気も感じました。
そんな中でも普段と変わらず実直に生きようとする人々の姿と、
心の拠り所となるゴシック様式の教会の佇まいと、
その教会の屋根に上って見た街が夕焼けによって茜色へと染まっていく風景が
思い出されます。
バンコクではテロの現場となったヒンドゥー寺院に赴き祈祷もできました。
輪廻を苦と捉え輪廻から解脱することを目的とした輪廻転生の考え方は、
古代インドで紀元前7世紀頃に、ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において
最初に登場したといわれています。
このバラモン教に反発して紀元前5世紀頃誕生した仏教では、
輪廻に主体を想定した場合矛盾を生じることから、
結局主体となるべき我が否定され、本質的な無我が説かれることとなりました。
タイでは9割以上が仏教徒ですが、仏教が国教というわけではありません。
国王は憲法上「仏教徒でなければならない」とされる一方、
「全ての宗教の庇護者」であるとも規定されており、
街を歩くと様々な寺院がありその多様性を感じます。
上記のバラモン教も一般に広く浸透しており、
手相占いや悪霊退散のおまじないなど、
宗教というよりむしろアニミズム(精霊信仰)的に生活の一部となっています。
この曲は5つの曲からなり、
形式や題名はキリスト教や西洋音楽のそれを使用していますが、
根底にはこうした西洋東洋の両方の哲学が流れています。
楽節が繰り返されるような時も半音ないしは全音調性を変えており(これは昔から私が好んで使う手法ですが)、
音楽もまた無常であり同じ時が戻ることはありません。
Ⅰ.鐘の鳴る道
各音は鐘の音を模していますが、弦楽合奏によって奏でられるときには場面の移り変わりや魂の浮き沈みを表すように聞こえてくると思います。
中間部では光も差し込んでくるようです。
Ⅱ.Passacaglia and Fugue
古今東西この題名を冠した曲はたくさんあり、そのどれもが内容的に充実し音楽的にも非常に厳しいものです。
その重さゆえに組曲に組み込まれたことは今までなかったのではないかと思います。
本来なら変奏の多彩さで聞かせる形式ですが、色彩感が出ないように極めて控えめな表現の中で進んでいきます。
Ⅲ.Recitativo
本来は旋律的表現を主体とするアリアに対する声楽様式で、「叙唱」と訳され「語り」に重点がおかれます。
Ⅳ.Interludium
Interlusiumは単に「間奏曲」と訳されることもありますが、教会音楽では賛歌の間に奏される曲や、16世紀において悲劇の幕間の音楽などにもこのラテン語の曲名が使われます。
この組曲唯一の抒情的な旋律が登場しますが、もし倍の遅さで歌われたとしたら賛美歌にもなるかもしれません。
中間は経過的な楽節ですが弦楽合奏の真骨頂だと思います。
Ⅴ.鐘の鳴る道(refrain)
再び鐘の音が戻ってきます。
皆さんは最初と同じことを感じるでしょうか、
それとも違うことを感じるのでしょうか。